刷り込まれた幻想

2025年8月18日(月)
毎年8月のこの時期は、80年前の戦争が日本による「侵略」戦争だったのか、「自衛」のための戦争だったのかの議論が起きます。最近は保守的立場から「自衛」という主張を強い言葉や、軽い乗りで口に出す政治家も増えてまいりました。(困ったことです。) 国際法上は「侵略」は許されず、「自衛」は認められるということでしょうが、どちらも人の世としてあってはならない戦争に変わりはありません。こうしたことはどこの国も、国家の方便として言い方を使い分けているだけだと思います。

そのうえで本当に平和を希求するなら「軍事力は一切持たない」ということに行きつくのではないかと、最近思います。そんなことをしたら「明日にでも中国もロシアも北朝鮮も攻めて来る。だから軍事力は必要なのだ。」と世間に言われるかもしれませんが、それって本当なのだろうか、実は「刷り込まれた幻想」に過ぎないのではないだろうかと思う時があります。軍人が一人もいない他国に、ミサイルを一個も持たない他国に、爆弾を落とす国があるだろうか? 軍艦や戦車で乗り込んでくる国があるだろうか? そんなことをする大義名分が立たないだろうと、そもそも軍事力を持たない相手に対して言いたいことがあればわざわざお金を掛けて戦争を仕掛けてこなくてもいくらでも言えるだろうと、そんな相手に戦争を仕掛けたり、戦争することもなく武力で相手国の国会議事堂や首相官邸を乗っ取ったりすると、むしろその国の方がその国の国内外から、そして世界中から非難を浴びて孤立していくのだろうと、だからそんなことを敢えて選択する国があるだろうか? と、そう思う時があります。

「刷り込まれた幻想」を振り払うと、急に視界が開けてきます。新しいアイディアがどんどん湧いてきます。例えば平和について考える時も、軍事力ゼロを実現するために、外交のあり方として自国の軍事力ゼロという平和方針について全世界の理解を先に取り付けておく(「だから攻めてこないでね」と)、また経済のあり方として他国を経済的に圧迫しない(利益を略奪しない、自然を破壊しない)、同時に協調的な貿易を根付かせる、そのために自国内の経済構造を変えていく等、自ずと必要なことが浮き上がってきます。そしてそれらを前提にしての軍事力ゼロの平和方針の実現です。「刷り込まれた幻想」におびえていると、未来永劫、兵器見本市の先にしか平和は見えてこないという皮肉な世の中になってしまいます。平和とはもっと相対化して考えるべきものではないでしょうか。

ちなみにこうした「刷り込まれた幻想」=「普段当たり前のように言われており余り考えたことがなかったけど、実はそんなことないんじゃないのということ」 は経済のいろいろな場面でも散見されます。(その辺りのことはいずれまた。) 我々の日常生活や仕事のうえでも、「刷り込まれた幻想」は身近なところで転がっているかもしれません。

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